何と言っても、薬師如来立像が圧巻。横から見た時の厚みがすごい。下半身がたくましく、安定感抜群。ラグビーフォワードの体形。そして、厳しく意思の強そうなお顔。信仰の対象としての迫力十分。
両界曼荼羅。オリジナルは修復後といえ、痛みがあり、全貌はぼんやりとしか見えないのだが、江戸期の複製を見る限り、ものすごい細かさと金銀の華やかさが素晴らしい。これを見せられたら、信仰する。空海はビジュアル化、演出が本当にうまいし、頭の中がピカソのように3次元と2次元を行ったりきたりできるのだと思う。天才。
御香宮神社:参詣に訪れた日は5月18日。天明伏見義民一揆の慰霊祭の真っ最中。初めて、小堀政方の悪政と義民一揆のことを知る。小堀遠州流の茶会に参加する前に、小堀家とのご縁を感じることに。
石清水八幡宮:昇殿参拝。彫刻群を堪能。信長の黄金の雨樋もきらびやかに。神仏習合からの変遷の歴史を伺い、江戸期の様子はどんなものだったのか・・もっと知りたいと思う。
藤田美術館:今回は茶道具の展示は少な目。隋流斎の茶杓「紫衣」、本手斗々屋、半使茶碗など。
孤篷庵小堀遠州流茶会:海獣葡萄鑑は古いもの。伏見城内外図は関ケ原前の伏見状下の大名屋敷配置図。見ててあきない。遠州好みの風炉釜はほっそりと小降り。水指も経筒でほっそり。茶碗は遠州好みの信楽花橘の写し。濃茶は、憧れの忘筌で。茶入は古瀬戸面取「深山木」。象牙の挽家がお見事。安南の茶碗はどしりと大きく、濃茶にぴったり。
北村美術館では、祖父の北村氏の似顔絵入りの狂歌のお軸を拝見。道具組などを堪能。北村さんのお茶は楽しい。ああいう茶会をしてみたいというもの。
楽美術館では、茶碗もよかったが、ぐい吞み、大津絵入湯呑がかわいく、これくらいなら買えるかも??ほしいという気持ちに。(実際は外に出ないのでしょうが。)
展示品が充実していて、時間をかけてじっくり見ることに。まずは、綴織当麻曼荼羅が圧巻。思ったよりずっと大きい。そして、単眼鏡でみると、ものすごく緻密に織られていることがわかる。奈良時代にどれだけの時間と労力がかけられて、どのように作られたのだろう??当麻曼荼羅縁起絵巻も展示。中将姫の物語として語られるのもわかる、超人的な曼荼羅だった。知恩院の阿弥陀二十五菩薩来迎図も緻密で美しく、たしかにスピード感がある描き方。私の臨終の床にも飾ってもらい、あの仏様たちに迎えにきてもらいたい。
最後は、立体涅槃図。動物たちがチャーミング。通常の涅槃図に描かれない猫もいるし、かたつむりまでいるし、楽しんで彫っている感じが満載。香川の法然寺のものらしいが、映像で見る限り、法然寺は極楽浄土のアミューズメントパーク的な作りになっているらしく、面白そう。
今回の気づき。法然上人の絵伝や来迎図をみると、「ビーム」が空、あるいは仏様から出てそれを受けている。キリスト教でも、聖フランチェスコ伝と同じような絵が見られる。オーラや光といったものは、どの宗教、どの世界でも同じに感じられるものなのだろうか・・。
三演目とも充実。大満足。
引窓:何度も見た演目。今回は心に染みた。松緑の濡髪長五郎・・小さいのではないかと思ったが、実の親への孝をたてるために、与兵衛への義理がたたなくなる・・板挟みになり悩む心の変化を細やかに表現。東蔵さんは、母親の情の厚さを豊かに表現。梅玉の与兵衛は安定。
七福神は、若手で華やかに。いつの間にか、隼人が毘沙門としてかっこよく貫禄を示しており大きく成長。歌昇がニコニコの恵比寿、他のメンバーも笑顔で踊る楽しい演目。
夏祭浪花鑑。昨夏、博多で観たときよりも、各々が充実、劇団としてのまとまりのある内容に。後味が悪い話ではあるので、正直、好きな話ではないのだが、愛之助の文字通りの熱演に最後まで目が離せない。巳之助の下剃三吉から、歌六の三婦、菊之助の徳兵衛はもちろん、米吉、苔玉、種之介と脇もしっかり。義兵衛はどこまでも憎たらしく、団七が追い詰められ、そして、「キレル」瞬間も明確に。愛之助のアタリ役になったな。団七が。
とにかく、良かった!
寺子屋は新悟が抜擢に応えて、戸浪を熱演。感情を豊かに表現。愛之助との息もあっている。品格ある梅枝の千代。菊之助も、どこかに品格を漂わす美しい松王で悲しみが一入。鷹之資の涎くりもチャーミング。
御浜御殿は素晴らしい。仁左衛門さんは相変わらず、美しく、チャーミングで小憎らしく、そして貫禄もある綱豊卿。幸四郎の助右衛門も生意気で骨もある武士ながら愛嬌もたっぷり。歌六の白石も先生としての貫禄と表情で、ストーリーを支える。
今回、「あぁ・・そういうことか・・」とセリフ劇の内容に一つ一つ納得。役者が揃ったからか、はたまた、自分が成長したからか・・。現代にも通じる真山青果の脚本に震えた。そう、理由のない、義のない仇討ちは世間の共感を得られない・・。
圧巻は「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」。圧倒的に宗達の鶴の絵が素晴らしい。水辺を飛び立ち、途中で視点が変わり、大空を飛ぶ鶴をとらえ、最後は対岸に着地して立つ鶴たち。動き、バランス、視点が2回変わるにも関わらず絵巻として破綻していない。そこに歌を書きこむ光悦のプレッシャーも半端なかったであろう。鶴が混みあっているところは太い字を中心に文字も詰め込み、余白の部分は細い字でちらして文字を入れる。でも、抜けた歌があったり(途中で2句書き込み)、最後は大きな文字になったり。それでも、やっぱり踊るような文字たちは美しく光悦の自由さが窺えた。
茶碗は、乙御前、弁財天(筒)、紙屋(斑模様)、白狐(白い環入り多い)、加賀、雨雲(斜めの線)、時雨(雨雲に形はにるが白っぽい)、村雲(雨雲より形にぬけがあり)。どこまでが、作為で、どこまでが自然の変化なのか?かっちりした形のものもある中で、丸い形に作為したものの、窯での変化を楽しんでいるようにも見える。
その他、多数の光悦の書状、光悦蒔絵(と言われるもの・・)、謡本など。